大衆演劇
劇団史
劇団史
2015.04.27 公開
中学生時代は野球に打ち込み、その傍ら音楽も好きであった武生は学校に音楽部がなかったので自分で音楽部を作って活動していた。
暖かい季節に野球をして、寒い時期が来ると音楽や演劇部を作って芝居をやるという活発な少年だった。
その反面で父親の職業柄、映画館の出入りが自由であったので映画をかなりの本数を観ていた。大の映画好きでもあり、この素質が後の座長時代の16歳頃のこと、旅公演先で劇団の若い衆に混じって武生も町回りをすることになった。町回りとは今でいう街頭宣伝である。
劇団の幹部や女優達もいる、そんな中で一番下っ端で太鼓の叩き方もその場で初めて教わった。しかし打ち上げのタイミングが分からず間違えていた、そのことで小屋主に注意され、まだ生意気な盛りであった武生は小屋主とケンカになってしまう。
そのあと父に連れられ小屋主のところへ謝りに連れて行かれた。
劇団を辞める覚悟で会いに行ったが、小屋主から「俺を殴るなんて、なかなか末見どころがある。将来、いい座長になるぞ。」と言われた。
舞台の上でも、小屋主が大切にしていた大張りを倒して壊してしまう。
座長の口上のときにヤジを飛ばしてきた酔っぱらった客を相手にケンカをしてしまい公演が出来なくなることもあった。
武生を舞台から下ろすとき、座長である父親から「役者は舞台が肝心、お客の言うことを気にするな。中には感激する人もいれば、酒を飲んで芝居を観る気がないが木戸銭を払って勝手なことを言うお客もいる。俺が黙っているのにお前がやる、お前は役者だぞ。」と説教を受け、道具化係に回された。
短気な性格が災いすることも屢々あったが、こういったひとつひとつも経験として積み重ねていったのである。
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梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。