大衆演劇
劇団史
劇団史
2012.06.29 公開
昭和十二年のこと、平井遠湊の紹介で清と龍千代は出会う。その一年後、清に召集令状が届き出征することになる。このことをきっかけに二人は入籍した。
昭和十四年、戦地から清が復員し一座に復帰。劇団の地盤は山陰山陽だったが、人気の高まりとともに全国各地の劇場から声がかかるようになり、劇団は新たな展開を求め龍千代の贔屓の多い東北方面へ進出して行った。昭和十二年、長男武生が生まれる。そして仙台の劇場で「梅沢清 竹沢龍千代一座」として旗揚げ公演を行なう。前狂言は龍千代が主役の歌舞伎仕立て、切狂言は清が主役の股旅物。その幕感に龍千代が得意の踊りを見せる、今の梅沢劇団の舞台の原点がここで出来あがる。
昭和十六年、太平洋戦争が勃発。清に召集令状が届く、龍千代に劇団を任せて清は出征。その後、入隊除隊を繰り返し、軍隊と舞台を往復し続けることになる。清は諜報機関の公務、つまりスパイとして満州や硫黄島などを点々としていたのであった。このことは清の死後、戦友から明かされ知ることとなる。
戦時中の劇団はどこも座員に召集令状が届き、座員が減って行く。そんな中、龍千代は必死で劇団を守っていた。本土空襲が激しくなると巡業が難しくなり、本拠地にしていた福島市に引き上げることになった。
昭和二十年八月十五日、日本降伏。同年十一月に清が戦地から無事に復員した。劇団は、チャンバラは禁止されていたいたものの、娯楽に飢えた人々が劇場へ詰めかけ活気を取り戻して行く。
目 次
一覧
梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。