大衆演劇
劇団史
劇団史
2014.02.03 公開
東京公演の成功により客が何を演劇に求めているのか理解した武生は、劇団の演目を変えて新しい舞台を作ろうと決心する。また、大衆演劇につきまとう「ドサ回り」という世間が抱く暗いイメージを払拭したいと考えた。
演劇とは夢を売る商売である。街や村はずれの掘立て小屋でお年寄りを相手に暗く辛い芝居を寂しく演じるだけではいけない、先ずは自分の劇団から今までの大衆演劇に対するイメージを吹き払おうと行動にでた。
当時の大衆演劇の舞台構成は、笑わせる芝居の前狂言、流行歌をバックに踊る舞踏ショー、最後に泣かせる芝居の切狂言というのがお約束だった。武生はそれに何か新しい演し物を加えたいと思った。
「歌」を一幕出すことを考えついた、今の歌謡ショーである。しかし劇団に楽器を扱える者がいない。いい方法がないかと考えていたとき、表をチンドン屋が通った。クラリネットやサックスでメロディーを奏し、あとは太鼓と鉦で拍子をとっているだけであるが、それを当時普及しはじめたテープに収めて舞台で流し合わせて踊る、今でいうカラオケである。テープの音だけでは物足りないので鍋の蓋、フライパンなど音の出る物をかき集めてポンコツ楽器の楽団の完成である。
しかし、いつまでもポンコツ楽器の珍妙さに客が喜んでいるはずがない。武生は座員に楽器を習わせて本格的な演奏が出来るようにした、舞台ではバンド演奏の横でミニスカートとブーツ姿で三人の妹にゴーゴーを踊らせた。
武生が役者になって以来、考え続けて来た大衆演劇改革の狼煙が上がる。
目 次
一覧
梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。