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劇団史

第七回『新国劇からの流れ』

2013.01.07 公開

歌舞伎の世界から飛び出して、自分の思い通りの劇団を作った方が良かったに違いない。

大正時代に沢田正二郎が新しい大衆演劇をめざして新国劇を作った、小気味の良い立ち回りで大変な人気となった。
もう一つ古い歴史を持つ劇団に新派がある。これは、明治時代に川上音二郎が作った壮史劇がその始まりと言われている。歌舞伎を旧派と考えると、現代劇を上演するので新派と呼ばれるようになったと言われている。
ドサ回りの劇団がどの分野に入るのかといえば、それは新国劇になる。常設小屋も無い、身分も無い、ただ芝居が好きという人達が、「義理と人情とチャンバラ」を芝居にした、大勢の人達に安く面白く楽しんでもらおうとして自然にできていったものです。
そのため、そうしたドサ回り一座の座員は、特に座長は歌舞伎か新国劇か新派のどれかの出身の人がほとんどだったようだ。中でも歌舞伎出身の人が圧倒的に多かった、これは歌舞伎は血筋を大切にすることから、いくら芸がうまくても、主役にはどうしてもなれないということがあったからだろう。

芸に精進していけば主役になれない不満もでてくるわけで、歌舞伎の世界から飛び出して、自分の思い通りの劇団を作った方が良かったに違いない。
新国劇にしても新派にしても、劇団の幹部に認めてもらわなければ大きな役はもらえない。ここから独立した人達も同じような事情だったのだろう。
この他、座員の中にはそうしたドサ回りの芝居を見て、その面白さの虜となり入団してしまうという素人の人も多く、努力して座長にまでなった人も少なくない。

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