大衆演劇
劇団史
劇団史
2013.01.07 公開
大正時代に沢田正二郎が新しい大衆演劇をめざして新国劇を作った、小気味の良い立ち回りで大変な人気となった。
もう一つ古い歴史を持つ劇団に新派がある。これは、明治時代に川上音二郎が作った壮史劇がその始まりと言われている。歌舞伎を旧派と考えると、現代劇を上演するので新派と呼ばれるようになったと言われている。
ドサ回りの劇団がどの分野に入るのかといえば、それは新国劇になる。常設小屋も無い、身分も無い、ただ芝居が好きという人達が、「義理と人情とチャンバラ」を芝居にした、大勢の人達に安く面白く楽しんでもらおうとして自然にできていったものです。
そのため、そうしたドサ回り一座の座員は、特に座長は歌舞伎か新国劇か新派のどれかの出身の人がほとんどだったようだ。中でも歌舞伎出身の人が圧倒的に多かった、これは歌舞伎は血筋を大切にすることから、いくら芸がうまくても、主役にはどうしてもなれないということがあったからだろう。
芸に精進していけば主役になれない不満もでてくるわけで、歌舞伎の世界から飛び出して、自分の思い通りの劇団を作った方が良かったに違いない。
新国劇にしても新派にしても、劇団の幹部に認めてもらわなければ大きな役はもらえない。ここから独立した人達も同じような事情だったのだろう。
この他、座員の中にはそうしたドサ回りの芝居を見て、その面白さの虜となり入団してしまうという素人の人も多く、努力して座長にまでなった人も少なくない。
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梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。