大衆演劇
劇団史
劇団史
2012.06.29 公開
富美男が五歳になったとき、中学を卒業した兄の武生が一座に戻ってきた。座長の子供と言っても特別扱いはされない、初めは照明や音響などの裏方の仕事を一通り覚えさせられる。それをこなせるようになって、ようやく役者修行となる。
父親の清が口移しで科白を教えるが、義務教育の八年間、芝居とは無縁の生活を送っていた武生の勘は鈍っていた。なかなか覚えることのできない武生をよそに富美男はすらすらと科白を読み上げ繰り返してみせる。覚えの悪さに腹を立てた父親に”分からないところは富美男に聞け!”と怒鳴られ、涙ながらに富美男から教えてもらうこともあった。
武生にとって苦難の日々であったに違いない。その頃の富美男は一座の売り物、よく気の付く子であったが、まわりの皆がチヤホヤして我が侭を聞いてくれる。何しろ、天才子役と言われた富美男である。下手な役者は大人であろうとも許せない、こんな奴とは芝居したくないと馬鹿にしてしまうこともあった。武生には更なる屈辱が舞台の上で待っていた。
「伊那の勘太郎」で富美男は悪党の背中に足を上げ科白を言う。悪党役は武生である、小さい富美男に合わせて床にべったりと這いつくばる、役の上とはいえあまりに情けない姿。まだ五歳の富美男が長科白を淀みなく言えば客席から歓声が沸き上がり、おひねりが雨あられと降ってくる、それが顔に当たる。
そのとき武生は「いい役者になって富美男をいつか顎の先で使ってやる」と思っていたそうである。
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梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。