大衆演劇
劇団史
劇団史
2012.06.29 公開
昭和二十五年十一月九日、福島市の祖母の家で富美男は生まれた。
富美男が生まれたときは大騒動であった。母の陣痛が始まり、落ち着いてから厠へ行こうと立ち上がった瞬間にお腹から富美男が出てきたのである。臍の緒が体中に絡み付き泣き出さない富美男を母が慌てて蹴飛ばすとようやく産声を上げた。その場を見た産婆さんが”この子は出世する”と太鼓判を押したそうだ。
赤ん坊の頃の富美男は舞台が好きでいつも袖の方から眺めていた、そのうち踊りや科白をいつの間にか覚えて器用に真似するのである。
一座が郡山で公演中のこと、開演前の会場から大きな笑い声が聞こえてきた。後ろに流れる「伊那の勘太郎」に合わせておしめをしたままの富美男が花道で踊っていたのだ。
富美男何と一歳五ヶ月の時の初舞台、天才子役の登場である。
これを母親の龍千代が面白がり、その翌日から富美男は舞台に立つ。まだヨチヨチ歩きの富美男が三度笠を持った股旅者の姿で見得を切り、科白を言ってのけると場内は沸き上がった。父清もこれを見て直感し、劇団の演目を富美男中心に切り替えた。
代表的な芝居は「母をたずねて」富美男が”ちゃーん!” ”おっかぁ!”と言うだけでお客は滂沱の涙。劇団の売り物となっていった。
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梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。