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劇団史

第二回『母、龍千代』

2012.06.29 公開

熱心に稽古を見ていると、座長の竹沢龍造から声をかけられ周囲の猛反対を押し切り一座に入門。

母、竹沢龍千代は大正2年に青森県藤崎町で生まれる。彼女の父、清水清五郎は大きな雑貨問屋の経営者で、母のふさの実家は津軽藩家老の家柄で大地主という良家の育ちであった。母、竹沢龍千代は大正2年に青森県藤崎町で生まれる。彼女の父、清水清五郎は大きな雑貨問屋の経営者で、母のふさの実家は津軽藩家老の家柄で大地主という良家の育ちであった。
1歳5ヶ月の時、囲炉裏に落ちて大火傷を負ってしまう。命に別状は無かったものの、首筋と手に火傷の痕が残ってしまった。その後、一家はリンゴ問屋を始めるために福島県郡山市に引っ越す。そこで花柳流の名取であった母親の勧めで、日本舞踊を習い始める。
15歳の夏、商売に行き詰まった父が愛人とともに蒸発してしまう。店は倒産し、家族は親戚を頼り北海道小樽に遷る。身を寄せた叔母の家は繁華街で劇場を経営していたので、毎日のように好きな映画や芝居を見て過ごせた。

昭和4年、運命的な出会いを果たす。娘歌舞伎の竹沢一座が劇場にやってきたのだ。熱心に稽古を見ていると、座長の竹沢龍造から声をかけられ周囲の猛反対を押し切り一座に入門。もともと踊りの素養があったため、すぐに先輩を飛び越え大役を任されるようになった。
一座が仙台で公演したとき時のことである。見物に来ていた女相撲の女座長平井遠湊から養女になって欲しいと頼まれる、龍千代が亡くなった娘に瓜二つであったらしい。”養女は無理ですが、役者としての私のお母さんなら”ということで契りを結ぶ。平井遠湊は当時、名の知れた興行主で母龍千代と父清を引き合わせたのは彼女である。

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