大衆演劇劇団史大衆演劇

劇団史

第一回『梅沢清劇団誕生』

2012.06.29 公開

客が数珠つなぎに大勢押し寄せ、無理矢理詰め込んだら二階席が落下したらしい。

富美男の父、梅沢清は明治42年に九州福岡近くの漁村で網元の長男として生まれた。
大正13年、父清15歳の時、地元に巡業にやって来た梅沢昇劇団の芝居に魅せられ、劇団が興行を終え次の巡業先に向かう時について行きそのまま一座に入る。
劇団に入って2、3年もすると体格も良く、男前でもあった清は一座の花形二枚目に抜擢され、芸名を市川梅三郎と名乗るようになる。そして、二十歳の時にスカウトされ、雇われ座長ながら芸名を梅沢清と改め、独立して梅沢清劇団を旗揚げする。

この一座は山陰山陽を地盤に巡業を行っていたのだが、その人気たるや物凄いもので、旅回りの劇団の中では、最も人気のある劇団であった。当時の劇団の人気を物語るこんな逸話が有る。
福島市にあった新開座という、東京の明治座程ある大きな劇場で、その当時の人気役者であった林長次郎ですら一杯にできなかったその劇場を梅沢清劇団が公演すると、客が数珠つなぎに大勢押し寄せ、無理矢理詰め込んだら二階席が落下したらしい。
この話は今でも、福島の老人の語り草になっているとのこと、劇団の人気の凄さが伺える話のひとつである。

このエントリーをはてなブックマークに追加