大衆演劇
歌舞伎とどこが違うの ?
歌舞伎とどこが違うの ?
歌舞伎とどこが違うの ?
日本の伝統的な芝居といえば、真っ先に「歌舞伎」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
大衆演劇は、ある意味、歌舞伎から派生したものといえます。源流を同じくしながらも、より庶民のための娯楽へと発展していったものが「大衆演劇」なのです。
日本の芝居は、安土桃山時代に出雲の阿国により演じられた歌舞伎がそもそもの始まり。
江戸時代、歌舞伎は人々に娯楽を提供する“大衆演劇”として盛んになっていきますが、明治に入って外国との付き合いが始まると、歌舞伎は日本文化を海外に紹介する“国劇”となり、伝統や格式が重んじられるようになりました。木戸銭(料金)も高くなってしまい、歌舞伎は大衆のものではなくなっていったのです。
そんな中、より安く、より面白く、大衆に娯楽を提供しようと生まれてきたのが、旅芝居いわゆるドサ回りの演劇集団。彼らは、高級化・専門化していく歌舞伎に対し、笑劇や人情劇、派手な立ち回りの剣劇など、わかりやすくて面白い芝居を演じ、全国各地でもてはやされました。「清水の次郎長」に代表される時代人情劇は、現在でも、大衆演劇の看板芸となっています。
また、昭和に入った頃から芝居の幕間のサービスとして始まったのが舞踊ショー・歌謡ショー。
こうした常に観客を飽きさせない“サービス精神”も、大衆演劇ならではの魅力といえます。
歌舞伎から派生した大衆演劇は、時代の変化に応じながら観客本意の娯楽を追求してきた、文字通り“大衆のための演劇”であり、日本の庶民のエンターテイメントを支えてきた貴重な文化の一つなのです。
梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。