両親に親孝行したいけれど、限界を感じています。私の両親は、ずっと自営業(商売)を営み、朝暗い内から夜まで仕事を三つも掛け持ちで働き詰めでした。子供三人を贅沢はなかったけど、好きな者をたらふく食べさせてくれて、のびのびと育ててくれました。現在はそれぞれ子供は家庭を持っています。
問題は、父で、家族よりも赤の他人を信じやすい父のせいで、人に騙されて全てを失い、今は団地で細々と生活を切り詰めて生活しています。年上の母の言うことを素直に聞いていれば、家の二つくらい建てて今頃は普通に働かなくとも生活ができていただろうに。母の言うことには全て反発して、他人を信じて振り回された父が時々、許せなくなります。
自業自得の父は70歳で雇われてアルバイトをしています。母はやっと専業主婦になりました。年金もなくて娘から見れば惨めな老後です。そんな両親に、一年に一度温泉へ招待して、ゆっくりしてもらうことくらいしか出来ません。
時々、母にはお小遣い程度をこっそり渡すしかできないのに、母はとても申し訳なさそうに、娘の私に感謝してくれます。私たち娘は、若い頃は好き放題して家の仕事も母の家事の手伝いもしないで、勝手な悪い子供たちでした。よくも投げ出さずに育ててくれたと今は感謝の気持ちです。本当だったら、もっと沢山稼げて楽をさせて挙げられたらいいのですが、たいした稼ぎもありません。親が生きているうちに親孝行をと言いますが、どうしたらいいのか、時々悲しくなります。
他人を今でも信じやすい、全くめげていない父親には頭にきますが、まぁ、寝たきりにもならず、なんとか働けているから感謝しなくてはと思います。支離滅裂で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
<音声は返答の一部をアップしています>
読ましてもらいましたけどねー、うん、ご相談。でもー、父親のことをそんなにきつく思ってもしょうがねえんじゃねえかなー。
だってそうでしょう。お前さんも大きくしてもらったわけだからねえ?うん。
「あんまり辛い思いもせずに、好き勝手なことさしてもらって大きくなりました」
って、あるからね。それだけでも感謝しなきゃいかんのじゃないかなあ・・・いやねぇ、梅沢さんは、自分のねぇ過去のこと言うのあんまり好きじゃねぇんだけどさー、ちょっと言わせてもらうとさぁ・・・うち、すっげえ貧乏だったんだよ、うん。三度のメシなんて食ったことなかったなー。
で、東北弁ですえた飯ってんだけどね、まぁ古くなった飯。うん、もうちょっと糸ひいたような飯・・・そんなの食ってたなー。
で、そのー。教科書もねえんだよ、もう破れちゃって。兄貴からのおさがりつかってるからどんどんボロボロになってさぁ。もう来る頃には、ページも破けて無くなってさ。だから本も買えなかった、鉛筆も買えなかったんだなぁ・・・
何故かっていうと、梅沢さんが学生時代の時は、テレビとか映画が凄いブームでね、実演って舞台のお仕事がへこんじゃってる時代だったのね。だから、収入がドーンと減っちゃって親は大変だったと思うよぉ。8人だからね子供、うーん大変だったと思う。
「しぃー、なーんでこんなに貧乏しなきゃいけないのかなー」って、親を恨んだ時もあったけどね。大きくなったら分かった!大変だったんだよ子供育てるってのは。
だから、しぃーオレー。三人娘の次女!大したもんだと思うよ。お母さんに時々お小遣い持っていって、いやそれだけでも十分だよ!親孝行ってさぁ、しぃー、芝居のセリフにあるんだけど、
「親孝行したいときには親はなし」
ってねぇ。といって、親孝行なんてのは、し足りないもんさ。どれをして親孝行なんだろ、これをして親孝行なんだろって分かんないもん、ねえ。だってそうでしょ。寝てるところに、「お母ちゃん風邪惹いちゃいかんから」って、お布団かけてやる。これも親孝行だろうし・・・たまに行って「母ちゃん何か食いたいもんあるかい?」って、飯食わしてやる。これも親孝行だろ、うん。
でもね、お前さんがこうやってたまにお母さんにお小遣い渡す。いいんじゃねえかな、うん。
で、お父さんは、そうやって人に騙されながらもさ、え?一所懸命お前さんたち育てたんだから、それだけを感謝してね、うん。
お父さんだって分かるよ、自分で失敗したって思ってるんじゃないの?そこで追い打ちかけて、お前さんたちが言うとさ、ちょっと気持ちもめげちゃうだろうから・・・まぁ、おとっつぁんのことは、おとっつぁんのこととして。うん、チッ。
親がいるから今のアンタがあるんだから。
だから一生懸命親孝行してやってちょうだいよ、うん。
とってもいい話だったね。
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梅沢富美男
1950年11月9日生まれ。福島県福島市出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男(8人兄弟の5男)として誕生。1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。その後、20代半ばで舞踊ショーの女形が話題となり、一躍大衆演劇界のスターに。2012年、兄・武生から劇団を引き継ぎ、座長に。舞台では二枚目から三枚目、艶やかな女形まで幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。そのほか、テレビドラマや映画などにも俳優として多数出演。
梅沢富美男
「下町の玉三郎」とも呼ばれ、梅沢富美男の代名詞ともいえる女形。普段の強面からは想像もつかないほど、妖艶な美しさを 醸し出すその姿が生まれるきっかけとなったのは、富美男が役者として伸び悩んでいた26歳の頃。「お前、女形をやってみないか?」という兄・武生からの提案がきっかけであった。突然の話にさっぱり理解できなかったが、座長の命令には背くことができない。仕方なく、「女性の観察・研究」を始めた。銭湯から出てくる湯上がりの女性を観察している時に不審者と間違われて警察に連行されたのは有名な話。さらに、母・龍千代から、色香漂う舞や仕草を徹底的に叩き込まれたという。メイクによる変貌ぶりだけでなく、立ち振る舞いや所作の美しさこそが、梅沢富美男演じる女形の真髄といえる。
梅沢富美男
大衆演劇のスターとなった梅沢富美男が歌の世界に飛び込んだのは、1982年のこと。小椋佳作詞・作曲による『夢芝居』が、大ヒット。3万枚売れればヒット曲といわれた時代にあって、48万枚のセールスを記録。1983年には同曲で『第34回紅白歌合戦』に出場し、一躍歌謡界のトップスターの仲間入りを果たす。その低音ボイスは、艶やかな女形姿とは一転、男の色香を発する。2012年にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)にボーカルとして参加。
梅沢富美男
近年、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても活躍。歯に衣着せぬ毒舌トークと曲がった事を嫌う 頑固オヤジキャラクターは、すっかりお茶の間にも定着。義理人情を大事にする一本気な性格が、ときに行き過ぎてしまうこともあり、ネットで炎上することもしばしば…。
梅沢富美男
芸能人の中でも、料理の腕は折紙付き。若いころに劇団の料理番を務め、寿司屋で修行したこともある。テレビなどで料理を披露するようになり、その腕前が話題に。テレビ朝日『愛のエプロン』のグランドチャンピオン決定戦では優勝を果たす。和食から洋食、中華、イタリアンまで、あらゆる料理のレシピが頭に入っており、ある材料だけを使って手早く料理するのも大の得意。地方公演などで時間ができると、気になったお店に飛び込み、板前やシェフに食材・作り方を取材し、料理レパートリーを増やしているという。