大衆演劇劇団史大衆演劇

劇団史

第十四回『二代目座長梅沢武生の演劇改革』

2014.02.03 公開

いい方法がないかと考えていたとき、表をチンドン屋が通った。

東京公演の成功により客が何を演劇に求めているのか理解した武生は、劇団の演目を変えて新しい舞台を作ろうと決心する。また、大衆演劇につきまとう「ドサ回り」という世間が抱く暗いイメージを払拭したいと考えた。
演劇とは夢を売る商売である。街や村はずれの掘立て小屋でお年寄りを相手に暗く辛い芝居を寂しく演じるだけではいけない、先ずは自分の劇団から今までの大衆演劇に対するイメージを吹き払おうと行動にでた。
当時の大衆演劇の舞台構成は、笑わせる芝居の前狂言、流行歌をバックに踊る舞踏ショー、最後に泣かせる芝居の切狂言というのがお約束だった。武生はそれに何か新しい演し物を加えたいと思った。

「歌」を一幕出すことを考えついた、今の歌謡ショーである。しかし劇団に楽器を扱える者がいない。いい方法がないかと考えていたとき、表をチンドン屋が通った。クラリネットやサックスでメロディーを奏し、あとは太鼓と鉦で拍子をとっているだけであるが、それを当時普及しはじめたテープに収めて舞台で流し合わせて踊る、今でいうカラオケである。テープの音だけでは物足りないので鍋の蓋、フライパンなど音の出る物をかき集めてポンコツ楽器の楽団の完成である。
しかし、いつまでもポンコツ楽器の珍妙さに客が喜んでいるはずがない。武生は座員に楽器を習わせて本格的な演奏が出来るようにした、舞台ではバンド演奏の横でミニスカートとブーツ姿で三人の妹にゴーゴーを踊らせた。
武生が役者になって以来、考え続けて来た大衆演劇改革の狼煙が上がる。

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